写ルンですって知ってます?

写ルンです

デジカメ全盛期の今日この頃、写ルンですを知っている人はまだいるでしょうか?

そう、これがその写ルンです。レンズ付きフィルムというものです。

これを久しぶりに手にしました。ご近所のカメラ屋さんの企画で、半分だけ自分で撮って、あと半分は誰かわからない人が撮る…というおもしろい内容。

縛りは3枚だけは地元の写真(私の場合は埼玉県の風景など)を撮ること。あとは何を撮っても良いとのことなので、早速移動しながら写したいと思います。何が撮れるか、自分でも楽しみです。

 

 

 

 

このスペースが気になる

さて、WordPressを使った新しいサイトになりました。

それはいいのですが、ブログだけメニューと記事の間に変なスペースが…。

cssを一生懸命見直しても、どうしてもスペースが縮まりません。残念ながらこのまま行くしかないか〜と思い始めています。

コミュニケーションは難しい

ちまたにコミュニケーションツールがあふれていますが、やはり基本は顔を合わせて話し合うことです。

ほとんどのことをメールやSNSで話し合えるようになって、私たちは相手の顔を見て話すスキルを忘れ始めている気がします。いえ、個々人の持つスキルの差が大きくなっているような気がするのです。

「察する」というスキルは是か否か。それが心配りとか優しさとかいうものなら「是」なのでしょうが、「言わなくてもわかるでしょ」とか「自分がこう言ったら従いなさいよ」という威圧であるなら「否」。まぁ、私はひねくれているので、暗に従わせようとしているなと感じたら「察しが悪い」人間になるのですが。

最近いろいろな人に会う機会が増えて、その方々のバックグラウンドがわからない状態で会話が始まった時、「この話題にはどう答えたものだろうか?」と悩むことも多くなりました。(基本、へらへら笑ってることが多いですが。)どう思われようと心配するようなことでもないのですが、つい…です。

話は変わって、ここ1年かかって髪のカラーリングをやめて本来の状態に戻しました。そうしたら話し相手の反応が微妙に変化しました。なんというかいつも本来の歳より下に見られていたようなのですが、見た目がだいぶ実年齢に近くなったせいで、「あれ?同年輩だと思っていたけど、もしかして年上?」というニュアンスを感じています。

我が一族は生来おちゃらけ・場繫ぎ使命を持った一族のようです。DNAがコミュニケーションを保とうとしているのかもしれません。会議が停滞した時、気詰まりな沈黙が訪れた時、つい反応してしまう私を許してください。

公私混同ではないですか?

市民活動というとどんなイメージなんでしょうか。その昔、市民運動ということばがあり(今もありますが)、当時はお上に逆らう過激なやつら…的な言われ方をしていました。私も市民運動と言われたら、どんなに誘われても参加しなかったと思います。

今の市民活動は行政によるサービスや企業による経済行為の間を埋める、独自の公共性を持つ活動を指しています。ですから、同じ市民活動でも行政寄りの活動も企業(営利活動)寄りの活動も存在するのですね。より柔軟性のある活動とも言えます。

さて、本題です。

行政寄りの市民活動をする人は、行政と同様に公平なサービスを提供すべきではないでしょうか。柔軟性をはきちがえて、長所をほめてくれる人には優しく便宜をはかり、欠点を指摘してくれる人には敵意を持って厳しく接するのは、言わば感情に従って行動する「公私混同」ではないかと思います。(そう指摘しても、100万もの反論をして来るでしょうが。)

良薬は口に苦し。苦言はできれば受けたくない気持ちはわかります。けれども苦言こそがその活動をさらに洗練されたものに育てる糧となるはずです。報復などしている場合ではありません。

そこに温度差というものがあって

市民活動や地域での活動にはボランティア精神が欠かせません。物質的な報酬のないところで、自分の労力を提供するわけですから、「満足感」とか「充実感」とかが得られないとなかなか続けることができません。

同じ目的に向かって活動している人々にも温度差というものがあり、微妙に人々の関係に波風が立ったりします。温度差が微妙であればあるほど、口に出してその差異を示すのは憚られます。

今、私が「微妙」だと思う差異はそこかしこにあります。これがどのように影響して行くのか、正直わかりません。うまく消化できればいいなと思うのですが、根がKYであまのじゃくなのでどこかでポロっと何か言いそうで自分が恐いです。

なんとも漠然とした言い方ですが、近々なにかが破綻する予感があるので、つぶやいてみました。

身をもって感じるもうひとつの災害

インフルエンザが大流行中です。予防接種をしていても罹るようです。特に児童・生徒間に著しく、学級閉鎖や学年閉鎖で学年末の行事が次々に取りやめになっていると聞きました。

私自身は先週末から風邪で寝込んでいました。インフルエンザでこそありませんでしたが、こんなに何日もへばったのは10年振りぐらいです。この間役に立ったのは、新型インフルエンザに備えて蓄えていた「クレベリン」と「粉末スポーツドリンクの素」です。なにも食べたくないし、動きたくない…人の世話などもできません。

パンデミックが恐ろしいのは、病気になることだけでなく、それにより社会として機能しなくなる…共同でなにかをすることができなくなることだと実感しました。災害時に人を助ける人たちが、人との接触ゆえにばたばたと倒れて行ったら、そのコミュニティは機能不全に陥ってしまうのです。

自然災害は他から救助が来ますが、病気は地域を越えて蔓延するので自分たちでなんとかしなければなりません。コミュニティとしての備えは病気にも必要だと身にしみました。

医師の説明責任…相手が理解できなければしたことにならないでしょ

高齢の母が手術後の定期検診をひとりで受けました。先生はレントゲンに視線を向けたまま、「問題ないですね」と言っただけで母の方を見なかったそうです。それだけ…。

なにが問題ないのか、そのレントゲンでなにがわかったのかぐらいは説明してくれても良かったのではないでしょうか。それとも「レントゲンを見ればわかるでしょ?」ということだったのでしょうか。これで説明責任を果たしたと思うのでしたら、ふざけた話です。

わからなければ質問すればいい…とおっしゃるかもしれませんが、自分の方を向いてもくれない人、さっさと帰れオーラ全開の人に食い下がることってできますか?せめて「ご質問はありますか?」ぐらい言って欲しいです。

とにかく、遠方まで新幹線を使って出向いて、これだけ。母はM.D.(医師)なのですが、だからと言って自分の専門外のことは全くわからないでしょう。ましてや医学の進歩はめざましく、現役でもないかぎり担当医師と同じ知識など持つわけがないわけで…。

これはたまたま担当になった先生の個性なのでしょうか?それとも師匠となる立場の先生がそのような対応を当たり前のようにしていて、それに倣ったのでしょうか?体調を崩した人に対する立場の方にはいま少しの「優しさ」を期待してしまう私です。

棚卸し

今日はなんだかやさぐれた気分なので、少しは自分の活動を振り返って整理してみようと思います。パートさんを始めましたが、前からやっている市民活動などを書き出してみることにしました。


さいたまARTS21
(Webサイト・チラシ作成)
くらし探検くらぶ(ブログ)
浦和まつり南浦和会場実行委員会(Webサイト)
さいたま市公共施設マネジメント会議(公募市民委員)
サポセンファンクラブ(事務局・Webサイト)
(外でやることも、家でやることも含めて拘束時間の長い順。)

これだけやって、月に2~3度福島市へ帰省して、さらにパートさんやってるんで最近疲れてるわけだな~。なんか納得したので、来年度から少しやることを整理しようと思います。基準は私が必要かどうかではなく、私が目指すことに近いかどうかにしようと思います。特にサイト関係は「他にやる人がいない」という理由で続けるのは避けたいですね。代わりの人がいないのは私の責任ではありませんから。